苦行と悟り(3) |
続きです。 大体、こんな行をするだけのエネルギーをもっとも生産的なことに回せないんでしょうか。 もともと宗教も時代の贅肉なのか、日本でも外国でも一部を除いて生産的な活動はしません。 タイの僧なんかは労働を不浄の行為だと考えていますからね。 大抵は寄付で賄っています。 確かに昔は、宗教は、民衆の精神的指導をしていたり、知を独占していたりなんてことがありましたから、一種の特権階級ではあったのだと思いますし、それが許されていました。 権力側も宗教を積極的に統治のために利用していましたからね。 キリスト教や仏教には権力との癒着の歴史がはっきりとあります。 しかし、現代ではそうした役割がどんどん希薄になっている。 それはいいとして、苦行の話に戻りますが、どうも精神的成長と肉体的苦痛に耐えることを根拠なく繋げているような気がします。 どの国でも宗教を信じる人は苦行が大好きですね。 そう言えば、インドなんかではとんでもない行をする人が結構いるようです。 そして、日本人にもこの傾向が顕著です。 なんでもかんでも精神論で片づけ、その精神は忍耐から得られるなんて主張はしょっちゅう聞きます。 しかし、修行に耐えたからといって人間性が良くなるなんて保証はまったくありません。 オウム真理教の例をみたらわかるでしょう(オウム真理教については後で触れます)。 たしか苦行では悟りを得られないとブッダは言っているはずなんですが。 結局のところ、千日回峰行も単なる自己満足なんじゃないかな。 では。 |
by fwnd9951
| 2015-02-10 07:38
| エリオンの考え
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