進歩と伝統(3) |
ここまで書きながら坂口安吾を思い出しました。 坂口安吾は戦後の一時期に一世を風靡した作家で、多くの小説や随筆を残しています。 しかし、今ではその作品が読まれることはほとんどないと思いますが。 私は安吾が好きで、高校時代に特にその随筆(「堕落論」が最も有名)を読みました。 その彼の随筆の中に昨日のテーマに近い文章があります。 戦後ほどない頃、戦争に敗れた日本が欧米化に躍起になっている姿を見て、ブルーノ・タウト(ドイツの建築家で日本文化の理解者として知られている)やジャン・コクトオ(フランスの詩人)は「日本人はどうして和服を着ないのだろう」、「欧米化に汲々たる有り様」と批判しました。 これに対して安吾はこう言っています。 「すなわち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。 我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失うはずがない。 日本精神とはなんぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。 (中略)伝統の美だと日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。 京都の寺は奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車がなくては困るのだ。 我々に大切なのは『生活の必要』だけで、古代文化が全滅しても、生活は滅びず、生活自体が滅びない限り、我々の独自性は健康なのである。 古いもの、退屈なものは、亡びるか、生まれ変わるのが当然だ。 見給え、空には飛行機が飛び、海には鉄鋼が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。 我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。」(『日本文化私観』) もう少し続きます。 では |
by fwnd9951
| 2010-06-01 18:07
| エンターテイメント
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